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2018年6月15日金曜日

なんでaimableは変わっているのか。

何度目かのブログ放置です。
謝ったところで意味がないので謝りません。
ごめんなさいこの野郎、
一昨日おいであそばせ。

あまりに長い充電期間を経て思うこと。
何もかもが変わりすぎて何も変わらない。

つまるところはね。
常識ってなんでしょう。
普通って何ですかね。
ってことなんですよ。

常識人。っていわれれば安心
非常識といわれれば不安。
普通。と言われると
なんかつまらない
変わっているといわれるとなんか目立った気分になる。

その安心や、つまらなさはあなたに何をもたらしていますか?

常識人で居ようとする努力。

普通を保つ為の動機付けの確保。
は常に進んでいく時間の中で、自分の人生を楽しめるものになっていますか?

あなたの周りに一人や二人はいる、
非常識な人。
非常識な出来事やニュース。
それらを見て意見したり、批判したり。
そうすることによって、
人は自身が常識人でいる自覚を保つ事を無意識にしているのではないのかなと。
僕は勝手に考察します。

時に、「普通は…」とか「普通ならば…」
なんて口にしたり思ったりしてませんか?
でも、
「じゃあさ、普通ってなによ」
って聞かれたら困りませんか?

つまるところ、
「常識」や「普通」何てものは一番変わりやすくて、ある意味「無責任」だと僕は思っています。

だってね。
「常識」や「普通」が変われば昨日までの「常識人」や「普通の人」は、
「非常識」で「変わった人」になってしまうわけでしょ?

それこそ、日本には「神」が「人」であることをカミングアウトした時代があったわけでしょ?

そりゃあ、全国民総慌て。でしょうよ。
うちのじいさん(100歳まであと少しで他界。)曰く。
「あ~。やっぱりね。」
なんて、割り切れた人はあまり居なかったと推測します。
そりゃそうでしょうよ。その「神」の為に己の命や大切な人の命を捧げてきたわけですから。

でも、その時代は疑問を感じながらもそれを義としてきたわけで、
その精神の強靱さが、今の日本を作り上げてきたわけでしょ?

つまりは、
世間様の常識の変化や普通の価値観の波に敏感に反応して、
尻軽といわれようが薄情といわれようが、
変化に順応して対応してきた人が、
人という生物としては、作りがいいわけでしょう。

でも。
そんなことをすれば、「自分勝手」とか「世間知らず」などと揶揄される。

四十手前になって思うことは、
ほかの生き物の命や存在を道具で制したり、律したりできるようになった人間という生き物は、
自らが滅ぼし合わないように作りだした生きる術が「常識」であり「普通」なのだということ。

だから、「常識人」や「普通の人」は安心するけどつまらない。

つまり、
敵じゃないと勝手に思い込んで安心できる反面で、
勝手に相手の中に自分と同じ「普通」を勝手に感じて、勝手につまらなくなる。

そして、
「常識人」で「普通」な安心やつまらなさを維持するために、
いろんな物事や出来事に評価や意見をしているだけならまだしも、
一方的に作られた意見や見方に同調して批判やバッシングをすることによって、
「常識人」で居るためにしている我慢や「普通」でいるために行っている偽装を正当化しようとしたり、自分を慰めている。

自身の今までを正当化するため?
これからを安定するためのフラグ?

それなのに、
自身の子どもや次世代を担う若者には「発展」や「繁栄」または「成長」を願う。

「無理があるだろ。」

誰も悪くなくて皆が悪いパワハラですよ。



僕は思う。
「その常識や普通は誰基準?」


むやみに殺めてはいけない。
とか
死んで良い命なんてないんだよ。
とか言いながら肉や魚喰っちゃうし。
殺して食うと見せかけて、残しちゃうし捨てちゃうし。
って、
いわば「人類基準」。

じゃあ、
戦争をして殺し合ったり。
飢餓や病気や老衰でこの世を去る命は?


「神様基準」。


だったらどうする?
ねぇ。
どぉします?

僕は、訳あって人が勝手に考えたものの結構支持率の高かった「神様基準」を知っています。
いや、知っていました。
その話は次に書きます。

だから、
「常識」や「普通」を理解はしているものの「疑い」ます。

だから、
そんな人が経営するaimableは
きっと
変わっています。

そんなお店に興味を持ってしまったあなたは、「地球基準」の持ち主かもしれませんね。











2014年2月10日月曜日

信じる。

放置して申し訳ありません。

書きたいことが多すぎて書いては消しを繰り返し。
書き終わっては見直し、違うだろうと思い保留にし。
を繰り返しては結果放置になりました。

いかんせん、
「今日はお休みなので○○へランチに来ましたー♪」
とか、
SEO狙いなのかわかりませんが「今日買った雑誌の■■が可愛かったですぅ」
などと書けないたちなのでごめんなさい。

さて、
信じるとは「人」と「言」という漢字が合わさって出来ています。
人の心が、
一般的には読めないので、
「人」が「言」う事を参考にするしかないようですねってことで解釈します。

するってぇと何ですか、
信じたいからには人の口を割らせなきゃいけないってことにもなりますね。
信じたいから人の口を割らせたにもかかわらず、
信じられないような事が飛び出す可能性もあるわけです。

しかし、
ある意味、己の勘を確定させて安心させたいからこそ、
信じられない答えを期待して口を割らせることもあるのでしょう。

じゃあ、
何を優先させるのか。

「信じる」

「信用」

「信頼」

「信念」



「人」の「言」った事を、

信じて用いる程度に済ませて傷つくことを最小限度に止めて自己防御するのか。

信じて寄り頼むことによって相手の力をも借りて己を強く保つのか。

信じてそれを念じることによって己の強さが育つのを待つのか。

それ以外にも色々あるだろうと思います。



その、どれも嫌だから信じる気持ちを「不」能にするのか。


きっと、
「不」能にしてしまえば、
一番合理的です。
「不信」になってしまえばこそ
信じることも無ければ、
裏切られることも無いのですから。

なのに、
進化したはずの人間は信じたがります。
裏切られたといいます。

なぜですか?

一番解らないのは、

「やれば出来る」

「信じるものは救われる」

「期待してたのに・・・」


なんていう、信じたくないけども、
よく聴くフレーズ。


でも、

やれてりゃしてるし。

信じて救われていれば今頃、
人間はいがみ合うことも無く世界が一つだったでしょう。

期待値が高すぎたんじゃないですか?
観察力を身につけましょう。

なんて、
思ってはいても言う人もいないでしょう。

そこを、
ひねくれている僕は言ってしまいます。
言い続けてきました。

そして一人です。
調子乗って独立開業とかもしちゃいましたしね。

ふと気づくと、
馬鹿なんじゃないかと思ったりもします。

いやいや。
馬鹿でしょ。


思います。


でも、
そう思って生きてきたお客さまやスタッフを始め、
たくさんの方に出会って、
ほっとしたり。
「人」の「言」う事を信じて我を張って生きていこうと思ったりもしてます。

つまるところ、
みんな裏切られることを求めているんだと思います。

良い意味でも。
悪い意味でも。

そりゃ、
良い意味で裏切られることは、
一見すると大歓迎です。

でも。

自己の立場における、
相手や物事への観察力・洞察力の
欠如へ関心は向かないのでしょうか?

逆もまた然り。

美容師という仕事には、
その両方の観点・視点が見え隠れしている気がしてなりません

良い意味で裏切られる事を望むお客様のために
良い意味で裏切る事を狙った仕事を目指して、
悪い意味で裏切ることを懸念して、
そうならないように思いをめぐらしながら仕事をするわけです。

「人」が「言」う事しか信じることが出来ない人知において
そこまで思いを巡らせて働く必要があるのかといえば、無いでしょう。

でも、
出来たとしたら。
とても素晴らしい美容師さんが増えるのではないかと
嫌な気持ちでお店を後にするお客様が減るのではないかと信じています。

あぁー
何が言いたかったんだろう。

とにかく、そう言う事です。

信じたいんです。







2013年5月3日金曜日

aimable aime の 安さの秘密。


こと在る毎に色々な方に
「こんなに安くて大丈夫なの?」
「こんな価格で元取れるの?」
「商売成り立ってるの?」
などと疑問を投げかけられたりご指摘を受けます。

答えは全てに「いいえ。」です。

良い訳無いです。
商売になんかなりません。
自分でも馬鹿ではないかと思います。

では、なぜそうするのか?
答えは簡単です。

暗い世の中で少しでも、
今より明るい未来を見たいからです。

それが、自分本位か否かの違いだけです。

己が属する業界や地域、そして生活レベルや階層、
その他諸々の柵や視野に入るもの、
センサーの感知し得る中において関わる、
全ての人の中にあって、
今の自分がどうすることによって、
今後がどうなっていくのかを予測する対象が、

まず自分。

ではなく、

周りの色々な事柄や関わる人達によって、
生かされている実感の下にある自分。

になっているだけの話です。

お客様商売をしていく上での基本は、
お客様の利益追求に尽きると思っています。

簡単に言えば、
自分の職業や仕事場を外から見れば良いと思うのです。

どう見られているのだろう。
どう見られたいのだろう。
に始まり

魅力的だろうか?
その魅力は何か?何に起因しているのだろうか?

仕事場の色々なことに言い訳をしていないか?
言い訳を作ろうときっかけを探していないか?

「理想と現実。」と言う事場を盾に逃げ道を探していないか?

数え上げればキリがありません。
しかし、
思いつかなくなる程までに向き合い続ける事こそが、
お客様商売の辛さや難しさであり、楽しさであると思うわけです。

その努力もしないで仕事をしていれば、
人のお庭が青く見えてしまう、
ミラクル眼鏡を手に入れてしまうわけです。
いまなら、ご購入特典で思った事を変換してくれる、
僻み翻訳アプリも無料ダウンロードできますよ。

どした、藤倉。

話を元に戻しましょう。

自分の先だけを見れば道は細く暗くなりがちです。
しかし、
自分の後ろを見る余裕があればこそ、
その道すがらに立ち寄った場所や出来事が見えてきます。
そして、その全てに関わった人が見えてきます。

そのすべてを思い巡らすとき色々な感情が生まれて来ます。
喜び、悲しみ、怒り、感謝。

そのすべてが今の自分や、今の自分の立場を作り上げてきたとすれば、
その事実を素直に認めることが出来れば、
その後に浮かんでくる感情は「情けなさ。」
もしくは、
もっとうまく出来たのではないかという「後悔。」や「疑念。」
ではないでしょうか?

では、
その後に何が出来るかを思ったときに指針となるのは「人。」
であることは明らかです。

簡単に言えば「恩返し。」
を基準に進んでいけばいいのだと思っています。

生きていくうえで人と関わっていかなければならないのは、
誰もが知っている事実です。

お客様商売をしていく上で大切なのはお客様である事実は変わりません。
とある商売の神様はかく語りました。

「お客様は神様です。」

不景気が叫ばれる昨今、
この言葉は単なる「商売人の心意気。」
ではなく、
紛れもない事実になりました。

なぜならば、

その昔の市場は戦後騒乱期を例に挙げれば解る様に、
物不足の時代です。
その頃の神様は「作り手」であり「メーカー」です。
市場における価値や基準を決めていたのは供給する側でした。
モノが無いのですから、作り出す人が偉かったわけです。。
供給側が「この手間はこの金額!」
と言い切ればその値段で売り買いするしかなかったわけです。

その後、高度経済成長期に入ると神は更に人に近づきます。
モノが溢れ世の中も好景気に向けて加速していくと、
「売り手」が神になります。
あの手この手で、
お客様の購買心を煽り、買う楽しみ、所有する喜び、
新しいものを手に入れる優越感を、
お客様の心理に植え付け、また摺り込みます。
その為に流通は進化し広告は派手さを増しました。

そして、バブル期が終わりを告げ、
現在の不景気時代の到来です。
お客様も広告やインターネットで最安値を探し、
簡単に便利に欲しい物を手に入れることが可能な時代になります。
ご存知の方も多いと思いますが、
定価という表記が少なくなり「オープン価格」などという、
意味不明な表現が多用されています。
今やモノの価値を決める権利が「作り手」・「売り手」には無いわけです。
すでに「神」では無いので価値を決めることが許されないのです。
商売人の心意気はもはや存在を変えて、
現実を表す言葉になってしまいました。

「オキャクサマ ハ カミサマ デス。」

この事実を認めればこそ、
道は簡単に開けます。

ギリシャ神話のごとく、八百万の神のごとく、
皆が神になればいいわけです。

そうすれば、「神」などという概念は消え去り公平になります。

つまるところ、皆ができる事を行い自然に真っ当に生きればいいのだと思います。

「作り手」は思う価値を、自信を持って掲げるに値するたゆまぬ努力を続け。
「売り手」は知識とプライドを軸に適正な価格を流通を意識して商売を行い。
「買い手」はその全てに納得できるものにだけ対価を支払えばよいのです。

ほらみんな

「神です。」

では、「作り手」と「売り手」を兼任する「美容師」のような職業はどうするのか?
たゆまぬ努力を続け、
美容馬鹿になることなく知識とプライドを磨き続け、
適正な価格を掲げればいいと思うのです。

暇になってしまうとすれば、
それは技術にとどまることなく、接客・接遇を含む、
己の腕や思いへのおごりが引き起こした当然の結果であることを、
真摯に認め、向き合い、そして改善すれば良いだけです。
簡単に言えば、
お客様が価値を見出すに至る仕事ではなかった。
という

だけ

のことです。

なぜ、
「だけ」
なのか。

簡単です。
誰かが歌っていたように
「触らなくっても神は祟っちゃう」
のです。

「うちの価値がわからないお客様は必要ない」
「他の店とうちは違う」
「あの店が安いからいけないのだ」
そう思えば良いだけのことです。
そうすれば、お客様が傷つくだけで済みます。
きっと、二度とおいでになる事はないので何も心配は要りません。
そして、
そう遠くない未来に、
明日を心配する必要もなくなります。

「だけ」で済ませるならば当たり前の結末です。

aimableやaimable aimeが 横浜 の地で、
しかも、美容室が乱立する 元町 で続けていくために、
 「だけ」 を重視していることこそが安さの秘訣です。

aimable創業から1年間はご新規のお客様は、
全て1週間後以降にご予約をお願いしていました。
どんなに暇でも続けました。

なぜなら、開業するまでの思いや力を与えてくださったのは、
それまでの自分を評価して下さったお客様です。
いつおいでになるかわからない
それまでのお客様のために席を空けておくことは、
僕にとっては0円ではなかったからです。
だから、創業以来売り上げが0円という日は一日もありません。

そこへ一人、1匹と仲間が増え 1階 のお店 aime を作るに至りました。
お客様への恩返しが軌道に乗ったら、
次は自分に仕事や心意気を教えてくださった方々への恩返しです。
僕が始めた20年近く前は、まだまだ見て覚える・盗むのが当たり前の時代。
その中でも、
今では当たり前のマニュアル作りを新たな試みに掲げている先生達に
囲まれて仕事が出来ていた僕は、今思えばとても恵まれていました。
父を始め先生たちは、
自分達が経験した無駄を省いたエッセンスを注ぎ込んでくださいました。
だから、今度は僕がそこから更に無駄を省いて誰かを育てなければいけません。

1階はそのための場所です。

巷の美容院で今でも新卒者を教えていく過程は、
マニュアルが存在する以外は20年前と何も変わりません。
上手くなると言われるレベルに達するまでに
担当されたお客様が傷つく「だけ」のシステムです。
仮にも、痛くないだけで身体の一部を扱う仕事であるのに、
そのための練習が人形や無償のモデルさんだけで、
ある程度の無難なスタイルを切らせ、
いわば身内といえる店内や社内の人間がチェックをし、
合格すればスタイリストとして入客。

お医者様ならひどい話です。
「盲腸しか切ったこと無いけど、明日の癌の手術は大丈夫です。」
そんなレベルです。
研修医でさえ昨今では指導医の管理下で担当患者さんを持つほどなのに、
美容界は恐ろしいです。
痛くないだけで簡単に考えすぎと思うのは僕だけですかね。

aimeのスタイリストは他店やチェーン店で一般的な金額で、
切ることを許される立場にいたにも拘らず、
当店で美容学生が始めるレベルの練習からやり直し、
腕を磨いている美容師で構成されています。
基本の15に及ぶステップを経て基本のカットテクニックの勉強に入った段階から
ベテランのスタイリストの監督下でお客様に触れます。
仕上げ前には必ずチェックが入り、切り直される事も珍しくありません。
ここで間違って理解されたくないのですが、
下手だから切りなおすわけではありません。
3150円の価値はあるカットです。

しかし、創業元の 3階 aimable の6300円の金額を頂戴できるほどではありません。
切れれば良いというものではありません。
6300円の中には、接客・接遇、毛髪の見極めの知識、
毛髪や薬剤の知識、アフターケアへの責任が含まれます。
これらはお客様の有する当然の権利です。
それを、人形や無償のモデルさんからどうやって学べますか?
金額に関わらず対価を頂戴する責任下で働く事によってのみ、
身に着くものだと確信しています。
金額に関わらず、対価を頂戴する以上は、
お客様と美容師という関係は変わりません。
安いから期待度が低い、下手でも文句は言えないなんてことは、
あってはいけないのです。
勝手に「神」になってはいけないのです。
だから、6300円で支持を頂いている美容師が現場で仕事を教え、
お客様に安心してお帰りいただく。
それこそが 1階の aime を作った意味であり。
安さの秘訣です。

はっきり言って、儲けなんか出ません。

それでも続ける理由は、
美容業界全体が廃れることを恐れているからです。

では、なぜ 高単価 美容室 が主流の 元町 に、
しかも、目立つところに手頃な価格のサロンを出店して価格破壊を挑んだのか。

答えは簡単です。
そんなつもりは毛頭無いからです。

美容業界、街や地域の衰退は己の死を意味するからです。

それを食い止めるためになら、
自分の腹を切ってまで賭ける価値をそこに見出したからに他なりません。

仕入れの交渉に全力を注ぎ、
足りない分はメーカーさんや問屋さんにただ働きをし、
ギリギリまで無駄を削り、
それでも見たいと思う程の、
お客様やスタッフの笑顔がそこにあり。
お世話になった方々や出来事への無くしたくない思いが消えず。
業界や地域の衰退を食い止めようとしてくれる同志の声を待っているだけですが。

なにか?

2013年3月21日木曜日

ひとのときをおもう。

とは某タバコ会社のキャッチフレーズ。
個人的には、
自分が思うほど人は自分の事を思ってくれてはいないと思うわけです。

そんなことを、お客様商売を生業にしている人間が
口にしてはいけないと思うわけですが。

美容師人生において、
延べ40000人を超えるお客様に
出会う機会に恵まれて生かされてきた中で思うことは多々あります。

常々、お客様に触れながら思うことは上記の寂しい一言に集約されます。

しかし、
だからこそ、
目の前のお客様の求めておられる何か。
を知るために意識を集中するわけです。

人は自分が相手を思うほどに、
自分の事を思っていてくれてはいないと知っているがこそ、
もしくは、そう知っているがゆえに、
更に、相手や物事を強く思い、時に念じ。
それがゆえに、
深い喜びや安心を知り、
時に傷ついたり、気や心を病むのだと思います。

だから、
せめて美容室くらいは。
と思って仕事をしたくなるわけです。

髪を切る行為は意識して行うことが可能な排泄行為と言えると思います。

身体の一部ではあるものの血が通っていない以上、
呼び名は「角質」なわけで垢や爪と一緒であるわけです。

気にならなければ、
放って置いても生死に関わることは稀です。

しかし、
気になれば気になり
気にしなければ気にならないわけです。

そこに拘ればこそ気に入った髪形になれば喜びや力が生まれ。
拘ればこそ悲しみや怒りが生じるわけです。

作り手とて然り。

こだわればこそ一人のお客様に思いを傾け、
それが伝わるほどに新たなお客様との出会いが生じ。
己の手の早さや気持ちの振り分け方に驕りが生じれば先が見えず。
焦り、戸惑い、迷うわけです。

お客様の一度のカットに割いていただく時間と同じように、
美容師が取り分ける時間にも限りが有ります。

仮に同じ一時間を持ち寄るならば、
お互いにメリットがあればこそと思います。

お互いに必要とする存在に切ってもらいたい、
もしくは切りたい。

という精神状態であるべきだと思います。

その感情が強く作用したために、
店舗を分けました。

勝手な考えですが、
自分の限りある時間を、
僕じゃない誰かでもいいと思うお客様に使いたくないのです。
僕じゃなきゃいけないお客さまの為に、
僕の時間は使われるべきなのです。

とはいえ、
aimableでなければ解消できないであろう、
「何か」も存在するはずです。

aimableに学びに来ているスタッフも
自分でなければ確立し得ない仕事、必要とされる存在を目指して集って、
精進しています。
その道のりの手助けをしていただければと思い、
1Fのaimable aimeの価格設定が存在します。

つまるところ、
人を自分が思うほどに、
相手が己のことを思っていてくれなかったとしても、
さほど問題ではないわけです。

自分が相手や物事を強く思う。
その気持ちこそが、
自分自身の生きる糧となり、
更なる飛躍へと導くものと信じれる何かへ昇華するのだと思います。

なんつって、
実は自分の傷を一緒に痛がってくれる、
誰かや何かを探しているだけだとは思いますがね。

2012年2月4日土曜日

ゆとりのゆとり。

社会に「ゆとり世代。」
と呼ばれる人たちが働き始めるようになって、
しばらく経ちますが実際に問題になっていたり、
話題になっているケース以外にどの位の問題があるのでしょうか。

そもそも、
ゆとりの何がいけないのか。
ゆとりとは何か。
脱ゆとりの教育は本当に効果があるのか。

そんな疑問が個人的には飛び交っております。

ゆとり教育。
自由な発想を生み出しやすくすべく提案された教育の方向性であったはずが、

「ゆとり。」

が生み出したのは自由な発想を伴う、
あるいは逆手に取って武器にした様な
責任を伴わない自由のように感じます。

きっと、
負の評価ばかりにフォーカスすればいくらでも突ける様な気はします。
ゆとりを武器に自由ばかりを主張すればいつかは刈り取る時期が来るように感じます。

同じゆとりでも、
どのタイミングにおいて与えられるかが、
一番のポイントであるように感じます。
何も知らない子供に最初から「ゆとり。」を与えるならば、
その子供は「ゆとり。」を理解するのでしょうか?
尺度になるものが形成されていない状況において、
「ゆとり。」は意味をなさないように感じます。

髪の毛も一緒です。
「多い」場所があるから「薄い」場所がある

「満たされないモノ」があるからこそ「満足」があるわけで。

当たり前に「ゆとり」を与えられたならば。
それが世の中にとって「善」ならば
ゆとり。がベースの世代に対して

叱る。事はおろか、注意。や意見。なんてものはナンセンスで。

存在すら危ういわけです。


その世代が悪いわけではなく、
「ゆとり。」の良さや悪さ。
言わば、使い方を教えずに「ゆとり。」をベースにスタートした、
大人たちにこそ責任があるように感じます。
しかし、
そんな事を言ったところで何も始まらないはず。
それを解ってはいても、
「最近のゆとり世代は・・・」
などと言いたくもなったりするわけです。

しかし、
「ゆとり。」から教えられたお蔭で早い段階で、
本当の意味での「ゆとり。」を知った世代もいるはずです。

ゆとりの中にありながら、
努力を怠らなかった人たちは、
比較対象が身近にいたお蔭で「ゆとり。」
の意味を知ったのではないかと思います。

であるからこそ、
社会に出てからの
出来る。
出来ない。
の格差が広がり続けて
「普通」という評価が無くなっている様な気がします。

当然、
aimableにも着々と「ゆとり。」の世代は入ってきております。

しかし、
僕は「ゆとり。」世代を受け入れるほど「ゆとり。」を持ち合わせていないので。
それよりも、
人生において「ゆとり。」なんてものは感じた事がないので、
そもそも、
ゆとり教育の仕組みや良いところ、悪いところなんてものは理解して説明できますが。

「ゆとり。」

自体が理解不能です。
何となくイメージでは解りますが、
そこどまりです。

例えるなら、

「うんこってなに?」

って聞かれて

「身体で使われなかった食べ物のかすだよ。」

なんて、賢そうな答えは出来るものの。

個人的には、
「うんこみたいな臭いがしたら、うんこだよ。」

ぐらいの理解しかないのです。

まぁ。
くさい話はさておき。

「ゆとり。」=ロス。

にしか感じれない人間なので、
F1マシンは遊びやゆとりが少ないから早いんだよ。
的な理論が好きです。
しかし、
それがゆえにセッティングが難しいんだよ。
という考え方は更に好きです。

だから、難しくて好きなんだよ。

なんて考えは小躍りします。

ゆとり世代のゆとりを取ったら、
シマウマのシマを取って「ウマ」ではなくて、
G1競走馬なんかになったりしないのか。

などとも思うわけです。

ゆとり世代から良い人材を探すのは難しいでしょうか?
そうでもないかも知れません、
なぜなら、ゆとり世代にはゆとりタップリな人しかいないので。
少しでも、昔風な人間を引けばいいだけです。

しかし、
そんな人はとっくに青田刈りされます。

では、
どうするか。

「ゆとり。」を取り除いても壊れなさそうな人間を探せばいいと思います。

そして、
「ゆとり。」を与えなければいいと思います。
褒めることなんかせずに、睡眠と食事だけを与えて、
ひたすら扱き上げれば良いだけです。

だって、
「ゆとり。」なんて教えなくても既にあるわけですから。

勝手に「ゆとり。」の良さを知り満喫し、
「ゆとり。」の意味を理解するでしょうからね。

aimable式の
「ゆとり。」世代の扱い方です。

だからこそ、
aimableやaimeの接客スタイルや、カウンセリングは特徴的と言われます。
ある意味、
武骨で乱暴だったりしているように感じたりもされますが、
ファンになって下さる方々は皆さん
「信用できる。」
と言って下さいます。

接客業でありがちな、
「お似合いですよ」
なんてことは、奥歯が浮いた時にしか言いません。
だって、
似合わないものは作りませんし、
そんなこと言うゆとりはありませんから。

常に全力で働かせることしかしませんので、
たまに「ゆとり。」なんてモノをかましているスタッフがいると、
いろんな仕事やノルマを与えたりします。


ゆとり世代なんで、無理です。
なんて言うスタッフは僕の諦めの悪さを知らない人間だけです。

そんな人には、
是非「ゆとり。」を満喫してもらいたいので、
嫌われるまでひたすらに仕事に来るように誘ったり、
家に迎えに行ったりします。

そうやって、
人に触れる仕事の責任の重大さや大変さを教えます。

僕が「ゆとり。」
を口にする日が来たら、死期が近いはずなので
僕の事を少しでも大事に思って下さる方は、
御数珠と喪服を探しておいて下さい。

では、
明日からもゆとりなく美容師を続けて参ります。
お付き合いの程を宜しくお願い致します。


2011年1月26日水曜日

情報量。




とは、
お客様商売においてあって困らないものの一つと思います。

しかし、あるからと言ってひけらかすのはNG
ないのはもっとNG

さて、そのバランスと塩梅が難しいわけです。

美容師の場合、美容の知識さえ完璧ならばいいのかといえば、
それは、言い方は悪いですが「美容バカ」と言って、
お客様にも美容師仲間にも敬遠されがちな存在になりかねないわけです。

悪態ついでに、もう一つ、

便利な世の中なりに出てくる問題かとは思いますが、
深くを知る努力をしなくてもそれなりに知識を得ることが可能が故の残念な知識の発表。
ちょっと前までは、少し大人びた子供の技のようなものが、
最近大人の間にもちらりほらりと見えたりします。

美容師も然り。

最近はあまり出番がありませんが、
個人的にヘアケア商材のアドバイスを求められることが多く、
美容とは無縁の専門書やソースに目を通したり、
色々な美容師さんのブログを覗いたりするのですが、

前者はいいとして、
問題は後者の方です。

髪の毛にかかわらず、
データを引き合いに出すならば、
数カ所から取り寄せて書きましょうよ。
と思うくらいに数字が乱雑だったり、データが古かったり・・・。
隔たった見方だったり。

僕のブログのように、あまり意味のない内容ならばまだしも。

それらしく書いておきながら、
内容が薄かったり、間違っていたり。


だから、美容師はまだまだばかにされることが多いんだろうなぁ。
と、
がっかりしたりします。

声を大にして言いたい。

格好つける事をしないと、この仕事はやっていけないのですか?
もちろん、お客様商売だから多少の要素は必要でしょう。

しかし、年を取ってもそのスタイルで仕事していけるのですか?

キモいとか言われたり、思われたりする心配はないのですか?
仮に、見た目やスタイルを補えたとしても、
心や脳みそまで追いついていけるのですか?

そのための準備は、もう始まっているんですよね?

これだけ美容院が増えているのに、
技術さえ出来ればいいのですか?

場所さえよければお客様は足を運んでくださるのですか?

日々思いつくことや目に付くことを自分で消化し蓄積し、
然るべきタイミングでお客様の求める方法や量で放出することこそが、
お客様の感動を呼び、笑顔を生み、
新たなお客様へとつながるはずと思いながら仕事をしているくせに、

妙に煮え切らないaimableの藤倉でした。





2010年3月21日日曜日

何だかんだ言っても。

人は人から何かをもらうのだと思います。

というのは、
最近の生活で特に感じる事の話。

今年は、
なんだか色々な事がありそうな一年の始まりを感じながら、
生活しているのですが、
おかげさまで、
各方面から色々なお仕事のお話を頂戴しておりまして。

4月5月は忙しくなりそうです。

サロンワークが軸なのは言うまでもありませんが、
4月5月は講習をする側の仕事もあります。
気付けば父の背中を追っているような気がします。
父は講習活動の傍らにサロンワークと言う美容師として長い事過ごしていましたが
彼のサロンワークにかける情熱の高さは今でも思い出すと緊張するほどです。
通常、講習活動の比率が高まるとお客様に触り慣れないという現象が起き、
サロンでは力を発揮できない事が多いのですが、
彼の場合は、

常に現場在りき。

現場ベースの講習や技術指導のレベルの高さの裏には、
彼の仕事への純粋な愛情や情熱があったのだと、
いま、自分が同じような立場に立たされて解る事が多々あります。


彼は多くを語りながらも多くを伝えない話をする人間だったので、
解る人にはものすごく響き、わからない人には全くわからない話が多かったように感じます。

彼の講習は別段変った事はしません。
全体に満遍なく語りかけ、メリハリを利かせた話し方をします。
その中で、反応を示した人を数人、
聴衆の中から的確に選び出して語りかける。
その人を中心に輪の様な物が広がり、
講習が終わるころには会場全体の温度が均一に上がる。

父の先生である大島先生の下で修行していた時に見た、
静と動を巧みに操る講習も同じように高度でしたが、
更に進化している父の講習を思い出すと、
自分にかなりのプレッシャーを与えます。

ルーツを見たからこそわかる事、
ルーツを感じたがゆえの重圧。

気にしなきゃいいのですが。

そんな訳にはいかないもんです。

付け焼刃では当然追い付けない事は言うまでもありません。

なので、美容師と言う仕事に就いている以上は、
技術以上に磨かなければいけないもの、
の存在に目を向けながら生活するようにしているわけです。

触れるもの、目に入るもの、その他感じることすべて。
何かしら仕事の肥やしになるような気がして取り込む癖があります。

なので、
「あ。これ仕事に使えるかも」
というようなジャッジはしていません。

とにかく、日々勉強、日々吸収。

無駄が多い脳みそなのか。
それとも、
万が一器がでかい脳みそだった時は。
世界征服くらい試みる事にします。

しかし、
そこまで行かなくても、
サロンワークと講習をバランス取りながら美容業界の色々な向上は目標の一つです。
美容師さんや、そこに関わるお客様や業界の人も含めて、
もっとより良い美容界になればいいなと。
思ってます。

一人勝ち的な考えで働いていても面白くないですし、
後がありません。
自分がかかわる業界全体が良い方向へ向かなければ、
自分の発展もないと心得ての、
今回の講習活動の再開という結論へ至った事をご理解いただけるお客様が、
一人でも多くいてくださればと勝手ながら思っています。

2009年3月18日水曜日

価値観。

物の価値。
場所の価値。
空気の価値。
人の価値。

価値観は人それぞれと言いますが、
ある一定の価値観というものは存在するはずです。
僕は、それを世間というものだと感じます。

いちばん身近な世間は何かと考えると、
家族だと思います。
そこでも価値観を感じることエピソードが起きました。
最近、誕生日を迎えた僕に何かをしてくれようと思ったまではよかったのですが。

こんなご時世、自分で作った方が安い

と、出来る妻をアピールする計算が、悲しいかなそこはAB型の定め。

形から入らなければ身動きが取れない為、
道具やら何やらを揃え直したその瞬間、

もろくも市販のバースデーケーキ価格を軽く越えてしまった…

という本人的には当初の思惑がもろくも崩れた手作りケーキの登場。↓


↑の登場により、

では、その世間において自分の価値はいか程なのか。
などということも考えたりするわけです、

自分の存在だって、その世間の一端を担っていると意識して生きることの、
必要性を感じることがaimableを始めてから多いわけです。
特に最近、感じます。

そのように意識して働かなくては、
というより、
そのように意識して働いて来ていたんだな。
と気づいたという方が、
正しいような気がします。

美容院の価値。= 満足度。
と感じるようにしているわけですが、
満足度。
と一言で言っても、かなり幅が広いわけで、
そのすべてを網羅しようとするのは不可能に近いです。
しかし、それを解っていながら諦められない。

諦めたくない。
というよりも、諦めるわけにはいかないんです。
僕が、いつも意識しながら働くのは、満足度の先にある「何か。」
なので、満足度。を諦めるわけにはいかないのです。

ただ、その先にある「何か。」が何なのか。
正直に言って、解りません。

それぞれの方が様々に持ち、そして評価する「価値観。」「満足度。」
そして、その先で更に枝分かれする「何か。」

悩ましいです。
でも、プロを目指す人間にとって努力を怠ることは失格なのです。

生きている間に、その領域の世界観の素晴らしさを、
少しでも垣間見ることが出来たならば、すごく幸せだと思います。

そのすべては、現在進行形であり続けていて、一生追いつくことはないのかもしれませんし、
自分がその流れを引っ張っていると感じたときには、
自分が遅れて行くのかも知れませんし、自惚れた結果なのかも知れません。

でも、その領域になったらば、誰も注意してくれたり、
教えてくれたりすることはないんだろうなと感じます。

バランスよく。
というのは、とても難しいのだと思います。
ただ、そこにフォーカスして努力を続けるだけでは人間味に欠ける気がするのです。

人間らしさの醸し出す、許容範囲内の誤差。
この、許容誤差のもたらす不協和音にも似た独特の感覚が、
同じ人間だから感じる心地よさをもたらし、
仲間が増えるのだと信じてしばらくあがくことにします。

どうぞ、お付き合いください。